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織戸 学 氏 いつも“本気”の生き様。

HUMAN TALK VOL.169 織戸 学氏 いつも“本気”の生き様。

PROFILE

織戸 学
ORIDO Manabu

1968年12月3日生まれ 千葉県出身
自動車雑誌「CARBOY」主催のドリフトコンテストの初代チャンピオンに輝き、坂東正明が率いる坂東商会に入社、91年から富士フレッシュマンのシリーズ戦、当時の最高峰NA1600クラスに参戦を開始。96年のスポット参戦を経て97年にGTレギュラードライバーとなり、同年にGT300王者を奪い、00年からはGT500にステップアップ。05年からはD1グランプリにも選手として参戦している。
http://www.orido.jp/

プロは意識していなくても、いつも本気でぶち当たり
チャンスをものにしてはい上がってきた。
現在はD1グランプリ、スーパーGTで活躍する
織戸学の人生には、そんな力強さがみなぎっている。
小学生の頃から、それは変わらずに———

織戸 学
バイクに夢中になっていた専門学校時代。織戸の周りには常に、価値観が似ている仲間がたくさんいた。

土屋圭市に憧れて

 僕の場合は、車より先にレースっていうのが入ってきた。キャビンとかラークとか、タバコのコマーシャルで星野(一義)さんとか松本(恵二)さんが毎日のようにテレビで出てくるでしょ、それにすごく憧れた。当時、小学校1~2年生の時だったけど、それを見てレースに憧れるようになったけど、家はレースとは全然関係なかった。ただ6つ上の兄貴がいて僕よりも先にバイクに乗り始めて、そのバイクの運転の仕方を教えてもらい、しばらくバイクにハマっていた。夢中だった。中学校の時に近所のバイク屋から動かないバイクを買ってきて、それを直して裏山で友達と乗ったり。それが自分のスタートですね。
 高校の頃はずっとバイクに乗っていて、高校卒業後に自動車の専門学校に行ったんですけど、その時もバイク。その頃はバイクのレーサーを少し目指していた。もちろん大きな夢として4輪レーサーというのはあったけど、現実として手が届きそうだったのが2輪だった。でも、土屋圭市さんの峠のビデオを持ってる友達がいて、専門学校の大きいスクリーンでそれを皆で見たのがきっかけで、だいぶ人生が変わったかな。すごい、こんな世界があるんだって。車の雑誌を見ればドリフトっていうのが流行り始めていて、土屋圭市さんがスターになりつつある時だったんですよ。それで、僕が今目指す事はドリフトだって思ったんです。
 そこから一気にドリフトの方に行こうと思ったけど、ちょうど友達が始めたのもあって僕がまずやり始めたのはジムカーナだった。ジムカーナとドリフトって結構近いものがあるんでね、僕はドリフトをやらないでジムカーナを一生懸命にやった。まずはライセンスを取って、競技会にももちろん出たし、レーサーのオーディションなんかも受けたりもした。もっぱら近所の埠頭の駐車場で友達とワイワイ毎日練習をやっていましたね。

織戸 学
ジムカーナで腕を磨いてドリフトの世界へ。現在ドリフト界を牽引するD1ドライバーたちとの出会いもこの時期だった。

人生を変えた坂東正明

 ジムカーナは1年ぐらいやったかな。86に乗っていたんですけど、千葉県の86の中では一番になるぐらい速かった。その頃に、あの雑誌カーボーイのドリフト大会が始まったんですよ。その大会にその86で出てクラス優勝して雑誌で大きく取り上げてもらえるようになり、車を皆で乗り換えてもっと上を目指そうってことになった。当時は86、シルビア、RX-7だったのを発売されたばかりの180でそろえようって。
 90年当時のその大会は年4戦あって、1勝すれば年末のグランドチャンピオン大会に出場することができた。そこでも優勝して、初代ドリフトグランドチャンピオンっていうのを獲ったんですよ。僕はもうレース用のスーツとヘルメットをもう持っていたから、その時の賞品で100万円の中古車がもらえたので、86をもらって自分でレーシングカーを作ってレースをやろうって思ったの。それで、その大会の審査員をやっていたのが今のGTA会長をやっている坂東(正明)さんで、レースをやる上で一回相談をしてみようと思って電話をしたんです。そしたら、町田の会社に来いっていうから行ったんですが、行っても行っても会えないんですよ。夜8時に待ち合わせして11時ぐらいまで待つんだけど、会えない。ようやく5回目に会えて言われたのは、「お前のやる気を試したんだ」ってこと。そのまま話が弾んで自分の素性を話して、プロレーサーは考えていないけど、小さい頃からレースが好きでレースをやりたくて、100万円の中古車をもらったらそれでレーシングカーを作ってレースをやろうと思っていると話した。そしたら、坂東さんは「オレが面倒みてやるから今の会社と家を納得させることができたら町田に出てきてオレの下で働け」って言ってくれた。当時は地元の自動車整備工場に就職をしていて、その時はここで10年間修行して、30歳になったら自分の工場を作りたいなと考えていた。大きな人生の転機でしたね。それが21歳の時、90年の冬だった。

レーシングドライバーになる夢を捨てられず
名門である坂東商会の門をたたいたことが
織戸の人生にとって大きな転機となった。
90年冬から劇的に生活が変化していく中で
織戸は着実に才能を開花し始めていく———

織戸 学
95年のスーパーシルビア参戦時代。2年連続チャンピオンを奪うことで、GT参戦の扉を開いた。

 90年の冬、地元の自動車整備工場をスパッと辞めて翌年から町田にある坂東商会で働き出したわけですが、そこでは僕の希望のメカニックではなく営業をやっていました。営業って言っても電話番とか配達。一番はアドバンっていう大きなグレートデンの散歩やトータルのお世話。これは本当に大変でしたよ。電話応対でも配達周りでも、とにかく自分の顔を売ることが大事なんだからと坂東正明さんに言われて。あの時はぜんぜん意味が分からなかったけど、その経験は後々で意味あることだったなって今は思っていますね。
 坂東商会には富士フレッシュマンのAE86のレーシングカーがあって、就職した年からレースに参戦させてもらいました。フレッシュマンはノーマル車両でのレースが多いんですけど、NA1600ってクラスはN2レギュレーションに近い範囲で改造エンジンを載せ、スリックタイヤを履く最高峰のレース。それが4輪レースデビューだったんですが、実際にレースに出てみるとコースは広いし、クラスも一番上だから皆が上手いし速い。苦労してレースをやっている人が多い中、僕はいきなりポンッて来たから、かわいがってくれる人もいれば、いじめられることもあったね。その中でもかわいがってくれる先輩が走り方とかアドバイスをくれた。でも、1年目はあまりいい成績を残せず、同じクラスを翌年にもやらせてもらってやっとシリーズチャンピオンを獲れました。で、93年からは鈴鹿フレッシュマンに出させて頂き。出ているドライバーは恐い人ばかりで、もう本当に全員がパンチパーマなわけですよ。まずレースを見に行って、これはヤバイと思って僕もパンチパーマにしていった(笑)。そこからですね、エンケイホイールとの付き合いは。エンケイの伊藤さんっていうアツい担当者がいて、当時サポートとしてレースに来てくれて、いろんなコーナーに行って走りをチェックしてくれて、速い人、うまい人と僕の走りの違いを細かく付きっきりで教えてくれた。そういう形でスタートして、GTにステップアップしてもずっと一緒に回っている中でいろいろ教わりました。レースにおいては本当に信用できる人ですし、自分の走りのスキルアップをサポートしてくれていたんです。
 その頃、坂東商会はグループAをやっていて、プロドライバーが身近にいた。中から見ていてプロは厳しいな、なかなかなれるものじゃないなっていうのはそこで見えていたけど、可能性がある限りはチャレンジしようと、94~96年はスーパーシルビアっていうシルビアのN2レースに参戦させて頂き、95~96年の2年連続チャンピオンを獲った。当時、JGTC(現スーパーGT)が始まり、その前座でスーパーシルビアのレースがあり、自分もいつかGTの舞台に行きたいなっていうプロ意識も芽生え始めた頃ですね。坂東さんにはとにかくチャンピオンを獲らないとお前に上の道はないと言われていて、がむしゃらにやっていました。それが認められて、96年には2回ほどGTに参戦できるチャンスもあった。最初はGT500、2回目は土屋エンジニアリングがMR2を作ってGT300に参戦するってことで土屋武士選手とともに乗せてもらったんですよ。仕事終わってから毎日手伝いに行ってクルマを作る過程も見せて頂き、乗せてもらえることになったわけです。97年はGT300フル参戦のチャンスをもらい、福山英朗さんと組んでチャンピオンを獲ることが出来ました。翌98年から00年はウェッズスポーツセリカに乗らせて頂き、01年はGT500にステップアップできました。そんなキャリアの中で、やっぱりGT500で初優勝した03年のオートポリスは忘れられない。本当にプロになれた瞬間だったから。当時も今もフォーミュラドライバーでなければGT500を乗りこなせないっていう風潮があったんだけど、僕みたいに走り屋出身でハコしかやってきてなくて、自分みたいな人間でも優勝ができるんだって証明できたわけですよ。05年にも優勝できたけど、そのふたつの勝利は僕にとっては忘れられない思い出ですね。フォーミュラに一度も乗らなくてGT500で優勝できたことは自慢ってわけではないけど、僕の中ではすごい誇りであるし、それができたのはエンケイの伊藤さんと知り合えたのが大きいですね(笑)。

織戸 学
00年からGT500のレギュラードライバーとなり、03年デンソーサードスープラで初優勝。
05年にはエクリプスアドバンスープラで2勝目を挙げた。

 坂東商会の社員になってから、ドリフトは一切やめていたんだけど、90年中頃からドリフト大会が流行り始めて、うまいヤツを集めた統一王座決定戦っていうのが95年に開催されたんですよ。そこで優勝してからは、ビデオオプションの大会で審査員をやらせてもらったりとか、憧れていた土屋圭市さんと仕事ができるようにもなったんです。ただ、やっぱり社員だったので会社の仕事と取材とレースをやっていくのはかなり大変だった。30歳で独立してからもD1では審査員をやらせてもらい、業界を盛り上げることに力を入れてきた。ドリフト業界とレース業界を近くする事ができたらって言ったら変ですけど。レース界ではドリフトって少しバカにされていた部分があったので。土屋さんもドリフトからレーシングドライバーになった人間で、それを追いかけた自分を含めて、何とかドリフトも認めてもらいたいなって気持ちは強く持っていましたね。その後、D1が盛り上がってきた05年、審査員を辞めて選手として新たに参戦を始めることになったけど、やっぱり自分の中ではレースが一番好きなのかな。両方好きなんだけど、レースは白黒はっきりしているからね。今後も走れる以上はまだまだ現役としてレースもやりたいんです。一生変わらないんじゃないかな、僕のこの生き方は。何かしらの形では走り続けていると思います。ドリフトもできる限り続けたいし、人を育てていくのもどういうった形かっていうのもまだ見えないけど、僕がそうしてもらったように是非とも力を入れて行きたいですね。
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