「雑草魂の叫び。」

VOL.155

関口雄飛 SEKIGUCHI Yuhi

1987年12月29日生まれ 東京都出身
94年からカートスタート、02年全日本カート選手権ICAクラスでチャンピオン獲得。03年にFTRSスカラシップを勝ち取り04?06年にフォーミュラトヨタを戦う。06年からスタートしたFCJにも同時参戦し、その06年にフォーミュラトヨタとのダブルチャンピオンを獲得。07年、09?10年に全日本F3参戦、今年は劇的な逆転劇でF3王者を奪った。
http://www.yuhi-muteki.net/

モータースポーツで頂点を極めるのはある意味で“綱渡り”のようなものだ。
どこかでバランスを崩せば、それまでのキャリアに関係なくどん底まで落ちてしまう可能性もあり得るシビアなスポーツの世界。
才能はあっても道が閉ざされることもある。
関口雄飛もそんなひとりで才能ある同期の中で遜色ないレベルにありながらも綱を渡り切れなかった。
だが彼は腐ることなく、そのどん底からはい上がり「今」を手に入れた。
そんな波乱万丈なレースキャリアの起点から振り返っていく。

レースを始めたのは、ある週刊誌を見たのがきっかけでした。子供用カートができたという広告を見て、父が「これ、やってみないか?」と言ってくれて。当時はF1ブームで、僕もすごくレースが好きだったんです。それでレオンカートという子供用のカートに乗りにいったんですが、すぐに好きになって「自分からやりたい」ってなりました。
 練習に何回か行った後、自分用のカートを買ってもらって練習して、半年ぐらいでレースに出ました。小学校2年だったと思います。常に優勝できたし、レースという世界にどんどん引き込まれていきました。大人用のカートに乗り始めたのは小学校5年生の時でした。当時はジュニアのクラスがなくてライセンスの問題でレースには出られなかったので、出られるところを探してレースめぐりの日々。そんな中でジュニア選手権というのがスタートして、僕は2年間参戦しました。当時、(小林)可夢偉、平手(晃平)とか大嶋(和也)とか、塚越(広大)もいて、かなり層が厚い時代(笑)。1年目はあまり成績が残らなかったけど、2年目は東日本シリーズのランキングトップでチャンピオンを決める東西統一戦に臨み、西日本トップの可夢偉も参戦していてチャンピオンを争いました。でも、その時に限って僕はぜんぜんダメで5位か6位で、最終的な東西統一ランキングも3位でした。
 その後は全日本カート選手権に3年間参戦しました。2年目でチャンピオンを獲れたんですが、1年目は使っていたエンジンがよく壊れてしまってチャンピオン争いには残れませんでした。ただ、東西統一戦でまた可夢偉と戦いました。実はそのレースの予選で、エンジンがまた壊れてビリの方からのスタートだったんです。でも、カートはフォーミュラカーと違って後ろからのレースでも速さがあれば抜ける。で、どんどん抜かしていってトップまで追いつき1位まで上がり、可夢偉や塚越と3台でトップ争いをずっとして、優勝もできそうな展開でした。最終的にエンジンがまた壊れて僕は止まってしまいましたが、悔しさはなくトップまで追いつき争えたので自分としてはすごく満足できるレースでした。すごく印象に残っています。

全日本選手権3年目はシリーズに半分ぐらい出て、後半は海外遠征をしてイタリア選手権に参戦しました。当時、自分をサポートしてくれるスポンサーさんがいて、当時ジャン・アレジとかデビッド・クルサードなんかにもスポンサードしている、かなり海外志向の強い企業でした。で、僕にも海外でフォーミュラをやるチャンスをくれる話も出て、自分の中でもプロレーサーになりたいという気持ちが固まりました。小学校からずっと男子校に通って、中学でも進学校に僕は進み、全日本2年目でチャンピオンを獲った中学3年で当然、今後の自分の進路を決める時期が来たわけです。親と話し合って、海外でやりたい、今後もレースをやりたいと自分の気持ちを伝えました。高校に進学してもレースをやっていくなら卒業できるかどうか分からない、どうせなら英語の勉強をした方がいいという結論で、中学卒業後に僕はインターナショナルスクールに行くことを決めていました。
 でも、最終的に海外フォーミュラの話は諸事情で流れてしまった。
とりあえずはフォーミュラをやりたいっていうので、親も入門フォーミュラ1年ぐらいならやらせてあげられると言うので、フォーミュラを練習するためにFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)のオーディションに参加することを決めました。オーディションに受かることに懸けて臨んだわけではなく、練習って割り切って考えた時に値段が安かったのが正直なところです。オーディションでは先にFTRSドライバーになっていた(中嶋)一貴や大嶋も同じように走って、参加者は彼らのタイムを基準として評価されます。最終的に練習を終えて予選、決勝という模擬レースを一貴や大嶋を含めてやります。彼らふたりにしても、ひと足先にフォーミュラデビューしていて負けるわけにはいかないから必死で走ります。そんなふたりを僕は決勝で抜くことができた。過去、そんなことはなかったそうです。オーディションの最終選考では気持ちを切り替えて、1位合格することに集中しました。フォーミュラデビューがサポートされると聞いたらやっぱり選ばれたいので。オーディションに合格して、翌年フォーミュラトヨタのデビューを約束された時は、初めてフォーミュラに乗ってこれだけできた自分はこの先どうなるんだろう。そんな期待がふくらんでいたのですが……。(以下次号)

FTRSのオーディションで現役スカラシップ生を抜き去り注目を集め自身でも「この先どうなるんだろう」と期待で胸をふくらまし
レースデビューを果たした関口雄飛。
だが、現実は甘くなかった。
速ければ成功できると勘違いしていた若造はどん底へ突き落とされる。
そこからはい上がってくるまでの日々が、今の関口の財産になった。

「絶対に諦めない理由」

自分が抱いた期待とは裏腹に、いざ4輪レースにデビューしてからは苦戦の連続でした(苦笑)。先にFTRSの練習生として経験を積んでいて同時にデビューした大嶋(和也)に開幕2連勝され、僕は3戦目に初優勝。そこからずっと彼とタイトル争いをして最終的には負けてしまいました。でも、1年先に練習していた大嶋と互角に戦えたので、自分の中での1年目は悪くないなという思いもありました。2年目はさすがにチャンピオンを狙わないといけない状況でしたが、結果は散々。優勝すらできませんでした。あの頃は若かったなって自分で思うほど、チームとうまくコミュニケーションが取れなかったんです。レースは自分の速さだけではダメ。マシンを速くできる能力やチームとの連携がうまくいかないと話にならないんです。そこで初めて道具を使う難しさとか、道具を良くするためにチームともっとコミュニケーションを取っていかないとダメなんだなって分かりましたね

 2年目は自分の実力に見合った成績じゃないので、そのまま終わるのは悔しかった。才能がなくてダメなら諦めますけど、自分の中ではもっとやれるのにっていう思いがあったから3年目はチームを探して参戦継続を決めました。
その年は5勝してチャンピオン、同じ年に始まったフォーミュラチャレンジジャパンという育成フォーミュラカテゴリーの初年度チャンピオンも獲れました。その結果によってF3チームのオーディション参加の権利をもらえ、全日本F3に参戦する道が開けました。

「チャンスをください」

でも、厳しかったですね。1台体制のチームだったので走行データも少ない。それで長年積み重ねて豊富なデータを持つトップチームと戦うわけですから。ただ、そんな言い訳が通用するわけでもなく、翌年はいよいよシートがなくなりました。国内は難しかったので海外フォーミュラの道を模索して、フォーミュラマスターズというカテゴリーにたどり着き、結果こそ残りませんでしたが自分の速さをアピールすることはできました。でも、レースでは結果が一番大事。僕は残せていなかったので、そこから先の扉を開けなかったんです。最終戦が終わって日本に帰ってきてからも良い話はなくて、1ヶ月ぐらい友達と飲み歩いてました。ヤケになってたんです。で、親に何をやってるんだって怒られてハッとしたんです。やれることをやってダメなら仕方ないけど、何もしないでグチグチしてどうするんだって。そこから動き出して、あるエブロの社長さんを紹介してもらい、その方のサポートで何とか09年はF3ナショナルクラス参戦に漕ぎ着けました。
2010年も同じくサポートしてもらってF3参戦ができ、スーパーGTではJLOCというチームを紹介してもらいました。「5周でいいのでチャンスをください」ってお願いをして開幕前のテストに参加。そこでトップタイムを出して認めてもらい、それ以降GT300ではJLOCで走らせてもらっています。

 瀕死の08年暮れと比べればぜんぜん良い状況でしたが、F3の方でチャンピオンに届きませんでした。2010年もランキング2位。翌年に向けた良い話もなく、今年はGT300のだけ継続でついにフォーミュラ路線は断ち切られました。そんな中、昨年からドライビングコーチをやらせてもらっていたB-MAXというチームの忘年会の席で、チームが独自にシャシーを製作してF4に参戦するという話を聞いたんです。で、何とかそれに乗せてくださいってお願いしました。やっぱりフォーミュラに乗っておきたい気持ちが強かったので。ドライビングの面はほぼ完成しているのでそこでコンマ5秒上がることはこの先ないけど、マシンセットアップの経験に関しては積めば積むほど自分の糧になっていく。シャシー開発となれば学べることも多いですからね。

最終的にF4参戦が実現して、そこからさらにF3参戦の話にまでふくらんで今年の途中参戦にも結びつきました。途中からなのでチャンピオンは厳しいかなっていう思いもありましたが、チャンスをもらった以上、やれるだけやろう、そう思って戦い、最終的に1ポイント差で念願のチャンピオンを獲れました。本当にここまで長い戦いでした。
 でも、今の自分はメーカー系のドライバーではないので、F3でチャンピオンを獲ったとしても何の保障もない。それを先につなげられるように頑張っているところで、どうなるかは自分でも分からない状況です。でも、決して諦めないことが大事だと僕は分かっています。自分を信じて、常に上を目指して突っ走る。そういう姿勢を貫くことで、たとえ時間がかかったとしても扉は必ず開く。これから先もその姿勢を忘れず、自分の中でのゴールを目指していきたいと思います。

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